町田直隆の20年を振り返る①「1997年」

当時18歳だった僕は国分寺にある美容専門学校「国際文化理容美容専門学校」の前で入学願書を持ったまま
大いに悩んでいた。
家族や学校には「高校卒業後は美容の専門学校に行って美容師になる」と話をしていたものの、
やはりどこかで音楽の道に進みたいと思っていたからだ。
揺れ動いた原因の一つがその数日前に中学時代からの友人で当時は別の学校でバンド活動をしていた
堀越君(後のBUNGEE JUMP FESTIVALのベーシスト)から「マチョ(当時の僕のあだ名)、卒業後は一緒にバンドやってプロ目指そうぜ!」と熱く語られたことと、
当時の恩師で高校1年生時の担任だったO先生から「お前は本当に美容師になりたいのか?音楽がやりたいんじゃ無いのか?」と言われたことが多いに影響していた。


高校時代の僕はろくに授業にも参加せず、放課後の軽音楽部の活動に全てをかけていた高校生だった。
中学時代からバンド活動をしていた自分は、その高校の軽音楽部の創立者でもあったため
仲間内では割と目立った存在だった。
当時の周りの誰もが「町田は卒業後はきっとバンドをやるんだろう」と思っていたと思うが
その頃の自分は(今となっては見る影も無いのだが・・・)音楽と同じくらいに美容とアパレルに興味があり、卒業が迫ってきた頃「このままではまずいな」となんとなく決めた進路が美容専門学校への進学だった。
でもそれは今思うと完全なる「逃げ」の選択だったのは間違いない。


バンドでプロを目指したい気持ちははっきりとありながらも、どこかで自信がなく
安牌の道を用意しておきたかったんだと思う。
「卒業後進学もせず就職もせずバンドでプロを目指します!」
と親に言って説得するのはやはり中々勇気がいることだった。
一応「専門学校に行って美容師になります!」と言えば親も安心するし、
とりあえずは将来設計ができるから、それでまあいっか・・・くらいの気持ちだったんだろう。
当然の如く美容師の道に進むことも決して楽な道ではなく、
おそらくあのままその道を選んでいたとしてもちゃんと美容師になれていたかどうかは大いに疑問だが・・・。


結果、その日結局自分は願書を提出せず家に帰った。
家に着き勇気を出して自分の気持ちを親に伝えた。
「俺はバンドがやりたい」と。
親の反応は意外とあっさりしていた。
「やってみれば良いんじゃない?」くらいのノリだった。
おそらく親もどこかで自分の息子が美容師だなんてありえない、
お前みたいなイモ臭い奴が何言ってんだ、くらいに思っていたのかもしれない。


恩師のO先生にも数日後その想いを伝えた。
O先生は安堵した表情で「やっぱり絶対その方がいいだろう」と言った。
それを聞いて僕もすごく安心した事を覚えている。


バンドで生きてゆく事を決めてからは、堀越君と頻繁に連絡を取り合い本格的なバンド構想とメンバー決めを始めた。堀越君は当時彼がやっていたバンドのボーカリストY君を、そして僕は自分がやっていたバンドのドラマー、田辺君をお互い紹介し合い、4人組のバンド「THE SPLASHERS(仮)」が結成された。
当時僕はボーカリストではなくあくまでギタリストとしてのバンド参加だった。


ボーカルY君の実家の近くにあった阿佐ヶ谷のスタジオでリハーサルを始め、最初の頃は
Y君が作ったオリジナル曲と当時メンバー全員が大好きだったHI-STANDARDGREENDAYのカバーを練習した。
「これからこいつらと一緒に夢を追っていくんだ」と言う期待と熱い気持ちに胸が高鳴りながらも
しかし意外とどこか冷めている自分がいることに徐々に気がつき始めた。


その原因は割とすぐにはっきりした。
Y君が作る曲が全く自分好みじゃないのだ!


これには困った。
当初は積極的に自分が曲作りに参加しようという意識はあまりなかったのだが、
止むを得ず、対処法として自分も沢山曲を提案するようになった。
それがY君にとっては面白くなかったのかもしれない。


Y君のバンドにかける熱量は日に日に下がっているように感じられた。
その頃、THE SPLASHERSの初ライブが決定した。
それはY君のお母さんが働いてる役所が企画した「エイズチャリティーライブ」なるものだった。
場所は中野ゼロホール。初ライブがホールライブだなんてすげーじゃん!
と一瞬バンド内のテンションは盛り返したように感じた。


初ライブが決まってからはリハーサルの予定も沢山とり、
いよいよ本格的にバンドがスタートするのだと俄然やる気になったのも束の間、
ある日のリハーサルにY君が来ず、連絡も取れないと言う事態が起こった。


結局リハーサル終了時までY君は現れず、スタジオ内に複雑な空気が流れた。
「まあ、次回は来るだろう」みたいな楽観的な意見に落ち着きその日は帰宅したものの、
メンバーみんな心のどこかで「もうあいつは来ないんじゃないか?」と感じていたと思う。
その予感は的中し、Y君は結局その後スタジオに来ることは一度も無かった。


Y君失踪後は割とすんなりと僕がギターボーカルにシフトチェンジして3ピースバンドとして活動してゆくことが決まった。
曲も一から書き直し、自分が書いた曲がメインのレパートリーになった。
初ライブは割とすぐに迫っていたが、3ピースになってからの方がバンド内での音楽性が
きちんと定まった感触があり、むしろしっくりきていた。
バンド名も二転三転と変わり中々決定に至らなかったが、ある日堀越君が持って来た
カバンに書いてあった英語、「BUNGEE JUMP FESTIVAL」で最終的に落ち着くことになった。


初ライブの当日、中野ゼロホールの客席にはあくまで「エイズチャリティーライブ」を目的に来た割と真面目な年配の方々と出演バンドを応援しに来た若者たちとの綺麗な境目が見てとれ中々面白い空間が生まれていた。
その中でも当時僕が並行してやっていたパンクバンドのメンバー達の鋲ジャン姿は一際異彩を放っていた。



ライブは初ライブにしては上々の出来だった。
ただ唯一、エイズチャリティライブなのにも関わらずMCで
「みんな死んじゃえ」と発言したのには少々眉を顰める人もいた様だった。
この発言は勿論エイズ患者に向けてではなく
その日の共演のスカしている「お利口さんバンド」やノリの悪いお客さんに対してだったのだが
今となっては完全に若気の至りだったと笑い話だ。


その初ライブ以降も吉祥寺のZEN(現WARP)や吉祥寺クレッシェンド、高円寺のRITZ(現クラブライナー)、西荻WATTSなどでライブの経験を積んでいき徐々に自信を付けていった。
また、初期の頃のライブでは曲によってはホーン隊が参加する事もあった。
(この頃は世間でスカコアなるものが流行していてホーン隊をバンドに入れることがオシャレであった)



当時ドラムの田辺君は専門学生だったが、残りの堀越君と僕は所謂フリーターで
散々バイトの面接に落ちた挙句、僕は実家の近所にあったデパートの倉庫番のアルバイトをしていた。
夏場の倉庫の蒸し暑さは堪えたが、このバイトは非常に気楽で良かった。
大量に荷物が届く昼時と夕方以外は掃除と伝票整理ぐらいしか仕事がなく、
暇な時間はこっそり倉庫の隅でノートに歌詞を書いたり
ハーモニカの練習をしたりした。
休み時間は5階にあった本屋に行き、ひたすら音楽誌を読み漁った。
そうして新しいバンドの情報を収集していった。


数ある音楽誌の中でも「DOLL」や「INDIES MAGAZINE」という雑誌が特に興味深く、
その中にひっきりなしに出て来る下北沢のシェルターというライブハウスに
ひたすら憧れを抱くようになっていった。


バンドの音楽性も結成当初は当時流行していたメロコアやポップパンクの影響が強い曲を演奏していたが、
徐々にアメリカのオルタナティブバンド(例えばWEEZERSMASHING PUMPKINSSUPERCHUNKやMELVINSなど)
から影響を受けたものを演奏するように変化していった。
日本のバンドではそれまで好きだったHI-STANDARDやミッシェルガンエレファントより
イースタンユースPENPALSなどから強い衝撃を受け、それらの要素をバンドに持ち込む工夫をするようになっていった。


次第にライブをやる街も吉祥寺以外に下北沢や渋谷も視野に入れるようになり、
自分たちが好きなバンドが出演しているライブハウスのオーディションは出来るだけ沢山受けた。


時にはデモテープを聴く事もされず門前払いになる事もあった。
当時のインディーズシーンはメロコアスカコアなどに影響された英詞のバンドが
非常に多く、そのため日本詞がメインだった自分達はまるでお呼びでないような、
今では信じられないような事があったのだ。


その現象もその約2年後、BUMP OF CHICKENGOING STEADYという2バンドの出現により
見事に覆されることになるのだが・・・。


そういう世間の流行もあったせいかBUNGEEは中々出演するライブハウスが定まらなかったのだけれども、
それでも当時友人が働いていたことをきっかけに頻繁に出演するようになった吉祥寺曼荼羅だけは非常に面白がってくれ、お世話になった。
結果、その約一年後にその吉祥寺曼荼羅にて僕らはデビューのチャンスを掴むこととなる。


一度だけコンテストなるものに出演した事もあった。
それはいつも利用していたスタジオが主催していた
コンテストで、幸いにも僕らは決勝ステージまで勝ち進み、
ON AIR WESTのステージに立ち結果、特別賞を貰った。
特に賞金は無く、MDウォークマンを1台貰っただけだったそのコンテストの授賞式では
ひたすら悪態をついた。
別に理由なんてなかった。
なんと無くそういう事が好きな年頃だったんだろう。


その授賞式終了後、一人の男性から名刺を渡された。
その名刺には「ソニーレコード」と書いてあった。
メンバーは興奮した。
あの有名なメジャーレコード会社の人から名刺を渡されたのだ。
そしてさらには連絡先まで聞かれた。
これはもうやったな、俺たちデビューできるぞ!と息巻いた。


確かにその人はソニーレコードの人ではあったが、
厳密にはレコード会社の人では無く、ソニーレコードの中の
若手育成部署の人だった。
今もあるのかわからないが、当時ソニーの若手育成部署は
「SDグループ」という名前で頻繁に若いバンドに声をかけており、
そに所属したところでデビューできる可能性はほとんどゼロに近かった。
要は若いバンドを沢山抱え込んでその中で特別光るものを持っているバンドだけに
力を注ぐみたいなスタンスの会社だった。
中にはそこに所属しただけで鼻高々になっているバンドもいたが、
僕らは割とすぐにその事実に気付き、結局「SD」には所属することはなかった。


1997年夏頃には吉祥寺に新しいライブハウス「STAR PINE'S CAFE」ができ、
そこのこけら落し公演にも出演した。
そこでin the soupやELEPHANT MORNING CALLといった素晴らしいバンドとの出会いもあった。


無事オーディションを通過した下北沢屋根裏渋谷屋根裏、渋谷NESTといったライブハウスにも出演するようになりバンドの交流関係も広がっていった。


そしてやはり何よりも嬉しかったのは憧れだった下北沢SHELTERのオーディションに受かったことだった。
オーディションライブ終了後に次回の通常ブッキングの声をかけられた時はメンバー一同舞い上がった。
数日後にバンド仲間ととても親しくしてくれていた友人の女の子がその子の家でお祝いの会を開いてくれた。
そのお祝いの会の場で酒を飲んだ僕は完全に羽目を外し過ぎ、結局その女の子とはほぼ絶交状態になってしまったのも今となっては良い思い出だ。


デパートの倉庫番を終えては特に用事も無く毎日吉祥寺の街に出向き、友達と朝まで遊ぶ日々が続いた。
友達がバイトしていたライブハウスに営業終了後にみんなで集まり朝まで勝手にライブハウスの酒を飲んだり、サンロード入口近辺でひたすらナンパに勤しんだり(成功率は限りなくゼロに等しかった。自分に関しては実際ゼロだった笑)、
井の頭公園で寝泊まりしたり・・・
本当にフリーターらしい、若者らしい日々だった。
次から次へと色んな仲間と出会い、毎日がまるで青春ドラマの一話一話みたいだった。
時間は無限にあるように感じたし、未来はいくらでもなんとでもなるような気がした。


ちょうどその頃テレビで松田優作の「探偵物語」の主人公、工藤ちゃんを登場させた
コーヒーのCMが流れて始めた。
その中で工藤ちゃんが言うセリフ、


「自由でいたいんだよ」


その言葉がまんま当時の自分を語っていた。


何にも縛られず自由でいたかった。
ずっとこのままバンドを続けて、願わくば夢を叶えて
仲間たちとずっと楽しく毎日を過ごしたいと思っていた。


1997年、僕はまだ18歳だった。
夢のカケラをまだようやく少しだけ掴み始めていた時期だった。


当時、吉祥寺の路上には沢山の歌うたいがいた。
まだ「ゆず」が登場して一世風靡し町中にタンバリンを持った
陽気な二人組が溢れかえる前の話で、彼らはみんな独自のフォークソング
ブルースを歌っていた。


その中でも「セッタマン」と名乗っていた当時おそらく20代後半の女性の歌が
僕は好きだった。
とても優しい女性だったが、照れ臭い僕はいつもちょこっと離れた場所で彼女の歌を聴いていた。
彼女の歌を聴きながら、ビルと電線で区切られた窮屈な吉祥寺の街の空を見上げていた。


12月は目前で少し寒くなりはじめた時期の
なんとも言えない幸せな時間だった。


この先もずっとこんな日々が続くんだろうと信じて疑わなかった。


僕にとっての人生の激動は翌年から始まることになる。


その時はそんな事などまだ知る由もなかった。


<続く>

「CAPTAIN PAPA」から10年

来年はBUNGEEが世の中に浸透するきっかけとなった作品「CAPTAIN PAPA」がリリースされてから
10年が経ちます。
その10周年を記念して「CAPTAIN PAPA 10th ANNIVERSARY SPECIAL EDITION」が
発売される・・・ことは残念ながらありませんが(つーか出したところで全く売れないだろうな)、
今回はその作品について少し語ろうと思います。

このミニアルバムは当時BUMP OF CHICKENやGIANT STEPといったバンドをリリース
して勢いに乗りまくっていた下北沢のレコードショップ「ハイラインレコード」のレーベル
「HIGHLINE RECORDS」からリリースされました。
それまで契約していたEPIC SONYとの契約が切れた僕等は
それにめげる事なく精力的にライブ活動と曲作りに励み、
めきめきと実力を付け動員を増やしていきました。
その矢先にHIGHLINE RECORDSの代表北岡一哲氏の目に留り、
このミニアルバムの制作にこぎつける事が出来たのです。
プロデューサーは当時スクーデリアエレクトロをやっていた石田ショーキチ氏で
僕はショーキチさんがそれ以前にやっていたバンド、SPILAL LIFEの大ファンだったので
ショーキチさんからプロデュースの希望が来たときは夢のようでした。

バンドにも勢いがあり、さらにプロデューサーも最高の人選で、
録音される物が良くならない筈はないと僕等ははっきりと確信しました。
実はこの「CAPTAIN PAPA」にはEPIC SONY時代にリリースされる予定だった
幻の作品(確かタイトルは「BEAUTIFUL WORLD」というタイトルで全6曲入りだった気がする。因にその作品の
プロデューサーは後に椎名林檎のバックギタリストになり、さらに夫となる弥吉淳二さんでした。)
の収録曲が2曲程再録されています。それは「BEAUTIFUL WORLD」と「揺れているもの」の
2曲です。それにプラス5曲を加えてこのミニアルバムは完成しました。
レコーディングは世田谷の用賀のスタジオで行われ、約1週間で済みました。
すべてのテイクは一発録りで、それ故に荒さはありますが
バンドの勢いを上手く封じ込める事が出来たと思います。
神経質で、完璧主義だった当時の僕は周りが止めるまで延々とギターのテイクをやり直してしまう癖が
ありましたが、ショーキチさんがあまりにもすんなりと「オッケー!」を出すので
ずっこけながらも録音された物を聴いてみると、ただただそのカッコ良さに
自分でも驚いた記憶があります。
思えばそれがショーキチさんの手腕ってやつでしたね。
「完成されたサウンドもいいけど、多少荒かろうが勢いを重視したサウンドの方がロックだしリアルだよ」
当時ショーキチさんはそう言っていましたが、時が経って聴き直してみても
それはとても納得出来ます。
20歳そこらだった僕等の飾らないリアルな音がこのミニアルバムの中で
今でも生き続けているのです。
この「CAPTAIN PAPA」という作品は未だに自分にとって特別だと思える作品の一つです。
自分が今まで書いた曲の中でも10本の指に入るくらい気に入ってる曲、「テレサ
も入っているしね。


このミニアルバムが発売されたらすげー事になるんじゃないかと
当時メンバー一同ドキドキした記憶があります。
残念ながらその期待は裏切られ、思いのほか売れず(笑 因に当時はバンプの次はBUNGEEだ!みたいな
変な期待感みたいなのがあってそのよくわからない比較に苦しんだりもしました)、
次回作「MORE VEGITABLE!」では開き直って思いっきり好き勝手をやるのですが、
今思うとある意味この作品がBUNGEEにとっての一つのピークだったのかもしれません。
僕個人的には「CRUITHNE」という最後のアルバムがBUNGEEの最高傑作だと思っていますが、
「CAPTAIN PAPA」が一番お気に入りで印象に残っている方も多いんじゃないかな。

なにはともあれ時間が経って冷静に過去の自分の作品について書いてみるのも
なかなか面白いですね。
ホリ、純平はまた違った想いをこの作品に対して持っているかもしれませんが
僕にとっての「CAPTAIN PAPA」は自分にとって原点のような作品です。

持っている方は時々は引っ張りだして聴いてやって下さいね。
では。

町田にとってのギターヒーロー達

今日は僕が影響を受けたギタリストの紹介です。
最近はライブであんまりギンギンにエレキを弾く事も少なくなりましたが
元々僕はあんまりボーカリスト指向ではなく、ギターをはじめた当初は
ギタリストとしてバンドに参加したいと思うギター少年でした。
しかし長年やっておいてなんなのですが、つくづく自分はギターのセンスはないな
と痛感する日々であります(苦笑)。
中学生の頃から全く上達していません。むしろ中学生の頃の方が上手かったかも?
僕の中学生の頃はまだギターは「速弾き至上主義」みたいなところがありまして
誰も彼もがピロピロピロ〜てな具合にメトロノームに会わせて速く指を動かす事に
勤しんでいた時代でした。不器用な僕は当然そんなに指を速く動かせる筈が無く
割と早くテクニカル系のギタリストになる事は諦めましたね。
そんなギター落第生の僕に「別に速くギターを弾けなくてもギタリストにはなれるんだ!」
と教えてくれたのがパンクロックでした。
まさに助け舟でした!パンクを聴かなかったらとっくのとうに音楽なんかやってなかったでしょう。
パンクのギタリストは何気にテクニックがある人からただの素人までピンキリいますが
やっぱり僕の一番はミックジョーンズです。ミックジョーンズも決して上手なギタリストとは言えませんが
そのパワフルなレスポールサウンドに中学生の僕は頭を殴られた気分でした。
簡素だけど印象的なギターソロも良い。因に僕が一番最初に手にしたギターはミックジョーンズのまねで
サンバーストのレスポールでした。


U2のエッジもまたテクニック派ではありませんが、偉大なギタリストの一人です。
ギターをまるでシンセサイザーのように扱う独自のプレイに僕も影響を受けました。
深くリバーブとディレイのかかったギターサウンドは一つの発明品でした。
いかにエッジのギターが衝撃的だったかを物語っているのが80年代の邦楽です。
みんなこぞってエッジのまねをしています(笑)それくらい衝撃的だったんだな。


技巧派にコンプレックスを持っている自分にとっても別格なのがブライアンセッツァーです。
ここまで上手ければグウの音も出ません。ギターを思いっきり歪ませれば多少運指が荒くても
音でごまかせたりするのですが、この人のギターの音は基本的にはクリーンかクランチなのに
それであそこまできっちり弾けるのは半端無いテクニックだと思います。
おまけに歌もうまい。バンジョーもうまい。今は梅宮辰夫化してますが若い頃はルックスも良いです。
とにかくギターの天才。まさにギターヒーローですね。


エアロのジョーペリーはハードロックのギタリストでありながらあまり小賢しい事をやらないのが良いですね。
これ見よがしにテクをひけらかすギタリストが僕は好きじゃないのですが、
ジョーペリーは基本のテクニックがあるのに敢えてぐっと押さえて楽曲のアレンジに出しゃばらない感じのギターを弾くのが
良いです。最近のエアロはちょっと歌謡曲っぽくなちゃったけれど昔のエアロなんてカッコイイリフのオンパレードです。
ハードロックにそんなに興味が無かった僕でもエアロのリフは沢山コピーしたな。
来日公演も(93年だったかな?)も観に行きました。
余談ですが昔ガンバ大阪に本並というゴールキーパーがいたのですがその人がジョーペリーに似ていたので
好きでしたね。懐かしいなあ。


MANICSのジェームスは隠れ名ギタリストですね。何気に凄く上手いです。良くあれだけ弾きながら歌えるものだなあと
驚きます。BUNGEE時代の僕の目標はジェームスでした。歌って、さらにバッチリギターも弾いて・・・。
でも実はギターボーカルって凄い難しいんだよな。ちゃんと双方を両立させるのがね。
そういった点でジェームスは永遠に僕の憧れです。


FUGAZIのイアン&ギーはテク云々はわかりませんが、その独自なプレイにとても影響を受けました。
正確には曲中どっちがどのパートを弾いてるのかわからないですがFUGAZIのギターサウンドはとにかく
変わっています。ヒステリックでエキセントリックで重く緊張感のあるサウンド・・・
どう形容したらいいのかわかりません。ときに不協和音やノイズに急遽変貌したり
ほぼ静寂になったり。こういったギターサウンドFUGAZI以外では味わえません。


ウェディングプレゼントのデヴィッドゲッジもあまりギタリストとして評価されている人ではありませんが
まるで右手を早送り再生しているかのような高速のカッティングには心底しびれ影響を受けました。
高速カッティングに命をかけているような初期ウェッズのギターサウンドは今聴いても
「なんだこりゃ!」とほくそ笑んでしまいます。
僕が16ビートのカッティングが好きになったのはこの人の影響ですね。


SMITHのジョニーマーのギターは透明感あるアルペジオが印象的です。
他の人のアルバムでも弾いていてもすぐジョニーマーだとわかるくらい
この人のギターには個性があります。
とにかくキラキラと美しく哀愁のあるギターです。
ガンガンソロを弾くタイプのギタリストでなくてもこういった音色や
フレーズの工夫で十分目立つ事が出来るのだと教えてくれたギタリストの一人ですね。


カートコバーンはもう言わずもがなでしょう。
僕のギタープレイの半分はカートの影響下にあると言っても過言ではないかも。
ソロになった今はそんなでもないけれどBUNGEE時代はやはり常にこの人のギターが
頭の中にあったな。NIRVANAのようなギターの音が出したくてどれだけ試行錯誤したことか。
最終的に行き着いたのがFENDER JAZZMASTERの改造で、それをFENDER TWINにつないで
RATをかますとそれに近い音になる事が判明し一時はずっとそれでライブをやってました。
結局すぐに飽きちゃってmarshall直のギターサウンドが今は一番好きですが
僕がエレキギターをもって真っ先に出したいと思うサウンドはいまでもやはり
NIRVANAのようなギターサウンドです。
カートコバーンは偉大でした。


最後の紹介するのはポールウェラーです。
御代はいまでも現役ばりばりにギターをかき鳴らしてくれていてありがたい限りです。
ポールウェラーにはそのギタープレイに影響を受けたというよりは
その佇まいに影響を受けた感じですね。
ギターのかきむしり方、ジャンプの仕方、さらにはファッションまで・・・。
THE JAM時代のポールウェラーは最高にキマっています。
もう芸術の域です。美しいです!
ポールウェラーは僕の永遠のギターヒーロです!!!



・・・と長文になってしまいましたが今回は僕の大好きなギタリストを紹介しました。
楽しんでもらえたら幸いです。
また次回をお楽しみに!
THE CLASH ミック・ジョーンズ
U2 エッジ
ブライアン・セッツァー 
AEROSMITH ジョー・ペリー
MANIC STREET PREACHERS ジェームス・ディーン・ブラッドフィールド
FUGAZI イアン・マッケイ&ギー
THE WEDDING PRESENT デヴィッド・ゲッジ
THE SMITH ジョニー・マー
NIRVANA カート・コバーン
ポール・ウェラー

町田を作った名盤達(邦楽編)

INSTANT LOVE

INSTANT LOVE

YOUNG&PRETTY(期間限定生産)(紙ジャケット仕様)

YOUNG&PRETTY(期間限定生産)(紙ジャケット仕様)

WALK TOWARDS THE FUTURE~JUN SKY WALKER(S) BEST~

WALK TOWARDS THE FUTURE~JUN SKY WALKER(S) BEST~

LA VIE EN ROSE

LA VIE EN ROSE

にんじん

にんじん

夏のぬけがら

夏のぬけがら

HURRY UP MODE(紙ジャケット仕様)

HURRY UP MODE(紙ジャケット仕様)

壊れた扉から

壊れた扉から

カメラ・トーク

カメラ・トーク

cult grass stars

cult grass stars

グローイング・アップ

グローイング・アップ

旅路ニ季節ガ燃エ落チル

旅路ニ季節ガ燃エ落チル

今回は邦楽編です。
正直影響を受けた邦楽アルバムは書ききれない程あるのですが、
何枚かに絞ってみました。
ジャンルはバラバラですが、どのアルバムも自分に取ってかけがえの無いアルバムです。
ジュンスカだけはオリジナルアルバムの画像がなかったので
ベスト盤を紹介しています。

僕がやっぱり一番聴いた邦楽アーティストはBOOWYですね。
BOOWYの影響が無ければ恐らく僕は洋楽にこんなにハマる事は
無かったと思います。布袋さんやヒムロックの影響で
イギリスのニューウェーブにハマった様なものだしね。
BOOWYは自分にとっては原点の様なバンドです。
「INSTANT LOVE」はBOOWYの中でもメジャーなアルバムじゃありませんが
このアルバムが一番僕の好みです。
ああこの時代のBOOWYのライブを一度生で観てみたかったなあ・・・。

影響を強く受けたという点ではブルーハーツも外せません。
BOOWY派とブルーハーツ派というものが当時はありまして
その2つは相容れない存在とされていましたが
僕はどちらも好きです。
BOOWYブルーハーツの2つに共通点があるとするなら
それは「男臭さ」じゃないかな。
男の子なら一発でやられてしまう様な感じがこの2つのバンドにはありますね。
個人的にはブルーハーツの魅力は激しいサウンドやライブに反して
歌の世界はどこか抒情的で文学的だったところだと思います。
ブルーハーツはメッセージ性にばかり評価が集中しがちだけれど
それだけじゃなくどこか日本人の心の琴線に触れる哀愁漂う楽曲を
作れた事がすごいなと思います。
因みに僕はブルーハーツのアルバムの中ではこのアルバムが一番好きです。

ここまで書いておきながら徐々に長文を書くのがかったるくなったので
あとは省略しますが、
どのアルバムも本当に名盤なので機会があったら是非聴いてみて下さいね!

町田にとってのPUNK名盤10選(ニューヨーク〜US PUNK編)

Leave Home (Dlx)

Leave Home (Dlx)

L.A.M.F.リヴィジテッド

L.A.M.F.リヴィジテッド

Marquee Moon (Dig)

Marquee Moon (Dig)

Blank Generation

Blank Generation

Incredible Shrinking Dickies

Incredible Shrinking Dickies

Easter

Easter

The Best of Blondie

The Best of Blondie

Stop Making Sense

Stop Making Sense

Disconnected

Disconnected

Static Age

Static Age

前回はロンドンパンク特集でしたが、今回はニューヨークとアメリカのパンク特集です。
ニューヨークパンクとロンドンパンクの違いは、ニューヨークパンクは
より音楽性よりも精神性、アート性が重要視されているという事が挙げられると思います。
よってロンドンパンクよりもはるかにニューヨークパンクは音楽性が雑多。
いわゆる「パンクロック」とくくられている音楽性に収まりきらないバンドが殆どです。
ひたすらエイトビートでがむしゃらに疾走するという音楽を期待すると肩すかしを食らう
コトも多いと思いますが、ロンドンパンクに比べて音楽的に味わい深いバンドが多く
(事実、ロンドンパンクの大半はほぼ楽器も素人の無職の若者や労働者達が己のフラストレーションを晴らすがべく
はじめたバンドが多く、それに対しニューヨークパンクは大学生や芸術家の卵だったりとわりかし恵まれている若者が
はじめるケースが多く、それ故の音楽性の違いがあるのではないかと思われます)
、一度ハマるとどっぷりハマってしまう魅力のあるバンドが多いです。
とはいってもいわゆる「ニューヨークパンク」と呼ばれるバンドは当時ニューヨークのアンダーグラウンドで活動していたバンド
に限定される呼称である故にそんなにバンド数が多い訳ではないですけどね。

とにかくアメリカは広大で当時ものスゴい数のバンドがいたと想像出来ますが、
きっとニューヨークなんてほんの氷山の一角に過ぎないでしょう。
ニューヨークパンクをきっかけにアメリカ全体のパンクロックの探索をはじめると
きっとおもしろいと思いますよ!

というわけで作品の紹介を。


RAMONESは言うまでもなくニューヨークの、そしてパンクの、そしてロックンロールの代名詞
である偉大なバンド。パンクロックという音楽の礎を作ったバンドの一つ。
SEX PSTOLSもTHE CLASHRAMONESがいなければ存在し得なかった筈。
その音楽は愛すべきワンパターン。1、2、3、4で疾走する2分弱の最高のロックンロール。
これを聴いて興奮出来なきゃダメだろ。
本来は歴史的名盤1stを推薦するところだが個人的な好みで敢えてこの2ndアルバムを。
JOHNNY THUNDERSは愛すべきダメ男。ヤクのやり過ぎで他界する事に。
だけどこの人程ロックンロールを愛し、そしてロックンロールに愛された人も中々いないだろう。
代名詞の名曲「BORN TO LOSE』は直訳すると「負ける為に生まれた」。
ものすごいタイトルだ。後の運命を知るとなんとも哀しい。
ヘロヘロのボーカルにけして上手いとは言えないギター。
でもそれが最高。ジョニーがいなければ今の自分はいない。感謝。
TELEVISIONはとにかく個性的なバンド。その音楽性は所謂パンクロックではないし、
更に言えばロックンロールでもないように感じる。
2本のギターとリズム隊の独特なアンサンブルはクラッシック的でさえある。
まさに四重奏。ビートの利いた曲もおとなしい曲もとにかく美しい。
この革新性もまたパンクロックの一つの形。
この1stアルバムは色あせる事の無い歴史的名盤。
RICHARD HELLもまたパンクロックの創始者の一人。いまやパンクファッションの定番となった逆立てヘアーも引き裂かれたTシャツや
安全ピンも元ネタはすべてこの人。音楽も凄い。代表曲は「BLANK GENERATION」。直訳は「カラッポの世代」。
究極のパンクアンセム。そのボーカルの独特さときたら半端無い。
どこから声だしてるんだ。それに絡む引きつって痙攣しているようなギターも良い。
この1曲がまさにニューヨークパンクを象徴する。必聴だ。
DICKIESは現在も活動中のLAのバンド。このバンドだけはニューヨークパンクではないが
お気に入りなので紹介。このバンドはまさにお手本のようなパンクロックを演奏する。
とにかく最初から最後までひたすらポップに弾けて疾走する。
RAMONESに近い音楽性を持っているがこっちはもっと軽く、そしてちょっぴりバカっぽい。
その感じがニューヨークという街には無いLA独特の物を感じる。
カバー曲のセンスも面白い。サイモンとガーファンクルのテンポを数倍速くした「サウンドオブサイレンス」のカバーなんかもある。
痛快なバンドだ。
PATTI SMITHは「パンクの女王」の異名を持つニューヨークパンクを語る上で決してはずせない偉大なシンガー。

町田にとってのPUNKの名盤10選(ロンドンパンク編)

Never Mind the Bollocks Here's the Sex Pistols

Never Mind the Bollocks Here's the Sex Pistols

Clash

Clash

Damned Damned Damned

Damned Damned Damned

Compact Snap

Compact Snap

No More Heroes

No More Heroes

Generation X

Generation X

Boys

Boys

Operators Manual: Best of

Operators Manual: Best of

Inflammable Material

Inflammable Material

999

999

Can't Stand The Rezillos: The (Almost) Complete Rezillos

Can't Stand The Rezillos: The (Almost) Complete Rezillos

今日は僕が影響された名盤達を紹介します。
僕はご存知の方もいるとは思いますが実は生粋のパンクキッズでありました。
上に載せたアルバムはパンク好きなら今更語るまでもない極上の名盤達です。
10選と書いておきながらいきなり11枚になっているのはご愛嬌という事で気にしないで下さい。
でもこの11枚は本当に最高の作品ですよ。
この他にもロンドンパンクにはB級からC級まで数えきれない程の名盤、良盤がありますが
とりあえず入門としては上記の11枚が僕にとっては最適だと思っています。



1番目のSEX PISTOLSはいわずもがな。すべての原点はここです。
2番目のTHE CLASHは僕にとっての洋楽人生ナンバーワン作品。ロックとはなにか?と問われれば
「このアルバムを聴けばわかるよ」と即答するでしょう。
3番目のDAMNEDは性急さと馬鹿馬鹿しさが最高にイカしています。パンクのビートとはグルーヴを拒絶する事。
録音もすごい。ひでえ音。だけど最高。言うまでもなし。
4番目THE JAMはパンクとはまたスタイリッシュであるという事を体現したバンド。
前記のDAMNEDがグルーヴを拒絶したビートを売りとしていたならばJAMはその真逆。
初期こそは性急さが魅力だったもののアルバムを追うごとにサウンドはグルーヴィーに。
最終的にはそのバンドのグルーヴに不満を持ったポールウェラーは解散後スタイルカウンシルを経て
ソロになった今も白人としてのブラックミュージックのグルーヴを追求し続けている。
己の道を求道し続ける事もまたパンク。そのサウンドの変化こそTHE JAMの魅力。
よってベスト盤をあえて推薦。
5番目のSTRANGLERSは漆黒の男臭さが魅力。サウンドも重圧、歌詞も硬派。
その迫力に沈黙して立ち尽くしてしまいそうな凄みがある。
しかし音楽性は実に多彩。いわゆるパンクロックらしくはない。
ポップではないが、フックはある。
一度ハマると抜け出せない魅力がある。ベースの音が凄い。キーボードが焦燥感を煽る。
野太い声。残響を排除したスネアの音。どれが欠けてもこの音楽にはなり得ない。
崖の上にはられたロープの上を歩くようなパンクロック。
6番目のGEBERATION Xはここで挙げたたどのバンドよりもポップで耳なじみが良い。
録音のクオリティーも高く、メジャー感漂う出来。
実際ボーカルのビリーアイドルはその後ヒットを連発するロックスターになる。
後の成功もうなずけるセンスをこのバンドからも感じる事が出来る。
ルックスもアイドル的だ。「KISS ME DEADLY」は珠玉の名パンクバラード。
この1曲があることがこのバンドを僕にとって特別なバンドに。
7番目のTHE BOYSは勢いとポップさが魅力。ビートルズビーチボーイズを高速で演奏したかのような趣。
過激さも派手さもないが、安定した演奏と安定した楽曲のクオリティーがそれを十分に補う。
思わず飛ばしてしまう曲がこのバンドにはない。一気にアルバムを聴き終える事が出来る。
それはすなわち実に完成度が高いという証。パンクの隠れた名バンド。
有名どころに何一つ引けを取る事がない。
8番目のBUZZCOCKSは一筋縄に行かない演奏とメロディーが最高。
数あるパンクバンドの中でも屈指のメロディーセンスを持つ。
天才としか言いようがない。不可能な筈のビートに不可能の筈のメロディーを乗せる。
そしてそれを最高のポップパンクナンバーにしてしまう。
ピートシェリーのとぼけた感じのボーカルが味を出す。
オリジナルアルバム(再結成後をのぞく)3枚はどれもはずし無し。均等のクオリティー
枚数を追うごとにキレの無くなりがちな当時のパンクバンドに於いて異例の事。
ただただ脱帽の才能。凄い。ここでは敢えてベスト盤を。
9番目のSTIFF LITTLE FINGERSは正確にはイギリスのバンドではなく、出身はアイルランド
それ故にイギリスのバンドとはまた違った迫力と、独特の哀愁を纏う。
今にも声をつぶしてしまいそうなシャウトに驚く。
ひどく切迫感がある。だけど楽曲はあくまでキャッチーだ。
このバンドも音楽的変化が魅力。枚数を追うごとにポップになって行く。
だけど勢いはそのまま。硬派で汗臭くどこか不器用に感じさせるところがいい。
CLASHが好きな人は好きになる可能性が高いと思う。
最高。
10番目の999はパンクバンドにしては実に器用に様々な楽曲を演奏する。
ちょっと細めの甲高い声は大凡パンクバンドには似つかわしくなく感じるが
楽曲演奏ともに完成度が高いため、それがかえってこのバンドの個性を際立たせているように思う。
がむしゃらさと破天荒な勢いこそパンクの本随だと思うが、このバンドからはそれはあまり感じない。
だけどまぎれも無く999はパンクバンドに思う。
不思議なバンド。
だけど曲はひたすらに良い。
ポップで巧妙。じわじわくるパンクロック。
11番目REZILLOSはパンクを過激でアナーキーな物だという尺度でとらえると
決してパンクバンドだとは言えないだろう。男女のツインボーカルという編成、
カラフルで少しオールディーズを意識したファッション、思わずツイストを踊りたくなるような
音楽性など非パンクな要素ばかりのバンドだけれども、
そんな事はまるで関係ない。
とにかく最高のバンドだ。
まさにポップパンク。音楽性のルーツは古き良きロックンロールやアメリカンポップスだと思うが
上手くパンクロックのビートにそれらの音楽を溶け込ませている。
どんな時に聴いても楽しい気持ちになれるし、ノレる。
大衆性に溢れている。もっと知られても良いバンド。






・・・とこんなかんじで今回は自分にとって最高にイカしたバンドとアルバムを紹介しました。
次回はまた違ったジャンルの名盤特集をしたいと思います。
お楽しみに!