町田直隆の20年を振り返る①「1997年」

当時18歳だった僕は国分寺にある美容専門学校「国際文化理容美容専門学校」の前で入学願書を持ったまま
大いに悩んでいた。
家族や学校には「高校卒業後は美容の専門学校に行って美容師になる」と話をしていたものの、
やはりどこかで音楽の道に進みたいと思っていたからだ。
揺れ動いた原因の一つがその数日前に中学時代からの友人で当時は別の学校でバンド活動をしていた
堀越君(後のBUNGEE JUMP FESTIVALのベーシスト)から「マチョ(当時の僕のあだ名)、卒業後は一緒にバンドやってプロ目指そうぜ!」と熱く語られたことと、
当時の恩師で高校1年生時の担任だったO先生から「お前は本当に美容師になりたいのか?音楽がやりたいんじゃ無いのか?」と言われたことが多いに影響していた。


高校時代の僕はろくに授業にも参加せず、放課後の軽音楽部の活動に全てをかけていた高校生だった。
中学時代からバンド活動をしていた自分は、その高校の軽音楽部の創立者でもあったため
仲間内では割と目立った存在だった。
当時の周りの誰もが「町田は卒業後はきっとバンドをやるんだろう」と思っていたと思うが
その頃の自分は(今となっては見る影も無いのだが・・・)音楽と同じくらいに美容とアパレルに興味があり、卒業が迫ってきた頃「このままではまずいな」となんとなく決めた進路が美容専門学校への進学だった。
でもそれは今思うと完全なる「逃げ」の選択だったのは間違いない。


バンドでプロを目指したい気持ちははっきりとありながらも、どこかで自信がなく
安牌の道を用意しておきたかったんだと思う。
「卒業後進学もせず就職もせずバンドでプロを目指します!」
と親に言って説得するのはやはり中々勇気がいることだった。
一応「専門学校に行って美容師になります!」と言えば親も安心するし、
とりあえずは将来設計ができるから、それでまあいっか・・・くらいの気持ちだったんだろう。
当然の如く美容師の道に進むことも決して楽な道ではなく、
おそらくあのままその道を選んでいたとしてもちゃんと美容師になれていたかどうかは大いに疑問だが・・・。


結果、その日結局自分は願書を提出せず家に帰った。
家に着き勇気を出して自分の気持ちを親に伝えた。
「俺はバンドがやりたい」と。
親の反応は意外とあっさりしていた。
「やってみれば良いんじゃない?」くらいのノリだった。
おそらく親もどこかで自分の息子が美容師だなんてありえない、
お前みたいなイモ臭い奴が何言ってんだ、くらいに思っていたのかもしれない。


恩師のO先生にも数日後その想いを伝えた。
O先生は安堵した表情で「やっぱり絶対その方がいいだろう」と言った。
それを聞いて僕もすごく安心した事を覚えている。


バンドで生きてゆく事を決めてからは、堀越君と頻繁に連絡を取り合い本格的なバンド構想とメンバー決めを始めた。堀越君は当時彼がやっていたバンドのボーカリストY君を、そして僕は自分がやっていたバンドのドラマー、田辺君をお互い紹介し合い、4人組のバンド「THE SPLASHERS(仮)」が結成された。
当時僕はボーカリストではなくあくまでギタリストとしてのバンド参加だった。


ボーカルY君の実家の近くにあった阿佐ヶ谷のスタジオでリハーサルを始め、最初の頃は
Y君が作ったオリジナル曲と当時メンバー全員が大好きだったHI-STANDARDGREENDAYのカバーを練習した。
「これからこいつらと一緒に夢を追っていくんだ」と言う期待と熱い気持ちに胸が高鳴りながらも
しかし意外とどこか冷めている自分がいることに徐々に気がつき始めた。


その原因は割とすぐにはっきりした。
Y君が作る曲が全く自分好みじゃないのだ!


これには困った。
当初は積極的に自分が曲作りに参加しようという意識はあまりなかったのだが、
止むを得ず、対処法として自分も沢山曲を提案するようになった。
それがY君にとっては面白くなかったのかもしれない。


Y君のバンドにかける熱量は日に日に下がっているように感じられた。
その頃、THE SPLASHERSの初ライブが決定した。
それはY君のお母さんが働いてる役所が企画した「エイズチャリティーライブ」なるものだった。
場所は中野ゼロホール。初ライブがホールライブだなんてすげーじゃん!
と一瞬バンド内のテンションは盛り返したように感じた。


初ライブが決まってからはリハーサルの予定も沢山とり、
いよいよ本格的にバンドがスタートするのだと俄然やる気になったのも束の間、
ある日のリハーサルにY君が来ず、連絡も取れないと言う事態が起こった。


結局リハーサル終了時までY君は現れず、スタジオ内に複雑な空気が流れた。
「まあ、次回は来るだろう」みたいな楽観的な意見に落ち着きその日は帰宅したものの、
メンバーみんな心のどこかで「もうあいつは来ないんじゃないか?」と感じていたと思う。
その予感は的中し、Y君は結局その後スタジオに来ることは一度も無かった。


Y君失踪後は割とすんなりと僕がギターボーカルにシフトチェンジして3ピースバンドとして活動してゆくことが決まった。
曲も一から書き直し、自分が書いた曲がメインのレパートリーになった。
初ライブは割とすぐに迫っていたが、3ピースになってからの方がバンド内での音楽性が
きちんと定まった感触があり、むしろしっくりきていた。
バンド名も二転三転と変わり中々決定に至らなかったが、ある日堀越君が持って来た
カバンに書いてあった英語、「BUNGEE JUMP FESTIVAL」で最終的に落ち着くことになった。


初ライブの当日、中野ゼロホールの客席にはあくまで「エイズチャリティーライブ」を目的に来た割と真面目な年配の方々と出演バンドを応援しに来た若者たちとの綺麗な境目が見てとれ中々面白い空間が生まれていた。
その中でも当時僕が並行してやっていたパンクバンドのメンバー達の鋲ジャン姿は一際異彩を放っていた。



ライブは初ライブにしては上々の出来だった。
ただ唯一、エイズチャリティライブなのにも関わらずMCで
「みんな死んじゃえ」と発言したのには少々眉を顰める人もいた様だった。
この発言は勿論エイズ患者に向けてではなく
その日の共演のスカしている「お利口さんバンド」やノリの悪いお客さんに対してだったのだが
今となっては完全に若気の至りだったと笑い話だ。


その初ライブ以降も吉祥寺のZEN(現WARP)や吉祥寺クレッシェンド、高円寺のRITZ(現クラブライナー)、西荻WATTSなどでライブの経験を積んでいき徐々に自信を付けていった。
また、初期の頃のライブでは曲によってはホーン隊が参加する事もあった。
(この頃は世間でスカコアなるものが流行していてホーン隊をバンドに入れることがオシャレであった)



当時ドラムの田辺君は専門学生だったが、残りの堀越君と僕は所謂フリーターで
散々バイトの面接に落ちた挙句、僕は実家の近所にあったデパートの倉庫番のアルバイトをしていた。
夏場の倉庫の蒸し暑さは堪えたが、このバイトは非常に気楽で良かった。
大量に荷物が届く昼時と夕方以外は掃除と伝票整理ぐらいしか仕事がなく、
暇な時間はこっそり倉庫の隅でノートに歌詞を書いたり
ハーモニカの練習をしたりした。
休み時間は5階にあった本屋に行き、ひたすら音楽誌を読み漁った。
そうして新しいバンドの情報を収集していった。


数ある音楽誌の中でも「DOLL」や「INDIES MAGAZINE」という雑誌が特に興味深く、
その中にひっきりなしに出て来る下北沢のシェルターというライブハウスに
ひたすら憧れを抱くようになっていった。


バンドの音楽性も結成当初は当時流行していたメロコアやポップパンクの影響が強い曲を演奏していたが、
徐々にアメリカのオルタナティブバンド(例えばWEEZERSMASHING PUMPKINSSUPERCHUNKやMELVINSなど)
から影響を受けたものを演奏するように変化していった。
日本のバンドではそれまで好きだったHI-STANDARDやミッシェルガンエレファントより
イースタンユースPENPALSなどから強い衝撃を受け、それらの要素をバンドに持ち込む工夫をするようになっていった。


次第にライブをやる街も吉祥寺以外に下北沢や渋谷も視野に入れるようになり、
自分たちが好きなバンドが出演しているライブハウスのオーディションは出来るだけ沢山受けた。


時にはデモテープを聴く事もされず門前払いになる事もあった。
当時のインディーズシーンはメロコアスカコアなどに影響された英詞のバンドが
非常に多く、そのため日本詞がメインだった自分達はまるでお呼びでないような、
今では信じられないような事があったのだ。


その現象もその約2年後、BUMP OF CHICKENGOING STEADYという2バンドの出現により
見事に覆されることになるのだが・・・。


そういう世間の流行もあったせいかBUNGEEは中々出演するライブハウスが定まらなかったのだけれども、
それでも当時友人が働いていたことをきっかけに頻繁に出演するようになった吉祥寺曼荼羅だけは非常に面白がってくれ、お世話になった。
結果、その約一年後にその吉祥寺曼荼羅にて僕らはデビューのチャンスを掴むこととなる。


一度だけコンテストなるものに出演した事もあった。
それはいつも利用していたスタジオが主催していた
コンテストで、幸いにも僕らは決勝ステージまで勝ち進み、
ON AIR WESTのステージに立ち結果、特別賞を貰った。
特に賞金は無く、MDウォークマンを1台貰っただけだったそのコンテストの授賞式では
ひたすら悪態をついた。
別に理由なんてなかった。
なんと無くそういう事が好きな年頃だったんだろう。


その授賞式終了後、一人の男性から名刺を渡された。
その名刺には「ソニーレコード」と書いてあった。
メンバーは興奮した。
あの有名なメジャーレコード会社の人から名刺を渡されたのだ。
そしてさらには連絡先まで聞かれた。
これはもうやったな、俺たちデビューできるぞ!と息巻いた。


確かにその人はソニーレコードの人ではあったが、
厳密にはレコード会社の人では無く、ソニーレコードの中の
若手育成部署の人だった。
今もあるのかわからないが、当時ソニーの若手育成部署は
「SDグループ」という名前で頻繁に若いバンドに声をかけており、
そに所属したところでデビューできる可能性はほとんどゼロに近かった。
要は若いバンドを沢山抱え込んでその中で特別光るものを持っているバンドだけに
力を注ぐみたいなスタンスの会社だった。
中にはそこに所属しただけで鼻高々になっているバンドもいたが、
僕らは割とすぐにその事実に気付き、結局「SD」には所属することはなかった。


1997年夏頃には吉祥寺に新しいライブハウス「STAR PINE'S CAFE」ができ、
そこのこけら落し公演にも出演した。
そこでin the soupやELEPHANT MORNING CALLといった素晴らしいバンドとの出会いもあった。


無事オーディションを通過した下北沢屋根裏渋谷屋根裏、渋谷NESTといったライブハウスにも出演するようになりバンドの交流関係も広がっていった。


そしてやはり何よりも嬉しかったのは憧れだった下北沢SHELTERのオーディションに受かったことだった。
オーディションライブ終了後に次回の通常ブッキングの声をかけられた時はメンバー一同舞い上がった。
数日後にバンド仲間ととても親しくしてくれていた友人の女の子がその子の家でお祝いの会を開いてくれた。
そのお祝いの会の場で酒を飲んだ僕は完全に羽目を外し過ぎ、結局その女の子とはほぼ絶交状態になってしまったのも今となっては良い思い出だ。


デパートの倉庫番を終えては特に用事も無く毎日吉祥寺の街に出向き、友達と朝まで遊ぶ日々が続いた。
友達がバイトしていたライブハウスに営業終了後にみんなで集まり朝まで勝手にライブハウスの酒を飲んだり、サンロード入口近辺でひたすらナンパに勤しんだり(成功率は限りなくゼロに等しかった。自分に関しては実際ゼロだった笑)、
井の頭公園で寝泊まりしたり・・・
本当にフリーターらしい、若者らしい日々だった。
次から次へと色んな仲間と出会い、毎日がまるで青春ドラマの一話一話みたいだった。
時間は無限にあるように感じたし、未来はいくらでもなんとでもなるような気がした。


ちょうどその頃テレビで松田優作の「探偵物語」の主人公、工藤ちゃんを登場させた
コーヒーのCMが流れて始めた。
その中で工藤ちゃんが言うセリフ、


「自由でいたいんだよ」


その言葉がまんま当時の自分を語っていた。


何にも縛られず自由でいたかった。
ずっとこのままバンドを続けて、願わくば夢を叶えて
仲間たちとずっと楽しく毎日を過ごしたいと思っていた。


1997年、僕はまだ18歳だった。
夢のカケラをまだようやく少しだけ掴み始めていた時期だった。


当時、吉祥寺の路上には沢山の歌うたいがいた。
まだ「ゆず」が登場して一世風靡し町中にタンバリンを持った
陽気な二人組が溢れかえる前の話で、彼らはみんな独自のフォークソング
ブルースを歌っていた。


その中でも「セッタマン」と名乗っていた当時おそらく20代後半の女性の歌が
僕は好きだった。
とても優しい女性だったが、照れ臭い僕はいつもちょこっと離れた場所で彼女の歌を聴いていた。
彼女の歌を聴きながら、ビルと電線で区切られた窮屈な吉祥寺の街の空を見上げていた。


12月は目前で少し寒くなりはじめた時期の
なんとも言えない幸せな時間だった。


この先もずっとこんな日々が続くんだろうと信じて疑わなかった。


僕にとっての人生の激動は翌年から始まることになる。


その時はそんな事などまだ知る由もなかった。


<続く>