ジョーストラマ−の命日に

Streetcore

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今日は3回目のジョーの命日。
早いものであれから3年も経つんだなあ。
今でもどこかであの黒いテレキャスをかき鳴らして、シャウトしているような気がしてしまう。
ジョーのサイン(TO NAOTAKAと書いてある!)は僕の一生の宝物だ。


多感な中学生の頃、僕はTHE CLASHというバンドと出会った。
ボンジョビのCDを買いに行ったのに、隣のCのラックに置いてあった
「白い暴動」のジャケットがあまりにカッコよくて、気がつけば
それをもってレジへ向かっていた。
そして家に帰って聴いて、衝撃を受けた。
それは僕の知る、「音楽」でも「ロック」でもなかった。
ブルーハ−ツが「パンクロック!」と歌っていてもピンと来なかったけど、
僕はCLASHを聴いて「これがパンクロックなんだ!」と即座に頷く事が出来た。
ひどい音、ひどい声、ひどい演奏だった。
「これなら俺にでもできる!」と思った。
その日から僕は家にあった親父の使い古しのフォークギターを頻繁に手にするようになった。
初めて弾けるようになった曲は彼等の「出世のチャンス」という曲だった。
「ルードボーイ」というCLASHの映画の中ではじめて動くジョーを観た。
ジョーは目をひん剥いて、体をよじらせ、痙攣させ「ポリスとこそ泥」を歌っていた。
僕はこんなもの、映像として流していいのだろうか、と戦慄を覚えた。
その映画を観たあと、体が震えて仕方がなかった。
次の日、僕は家にある一番大きな鏡の前で、ジョーのようにギターを抱えて、
体をよじらせている自分を映してみた。
「なかなかいいじゃん」と思った。
その何ヵ月後かに僕は自分の人生で初めてのバンドを結成していた。


高校を卒業して、僕も本格的に音楽をやる事を決意した。
何かに行き詰まったとき、胸にポッカリ空洞ができてしまうような
失意に暮れるときも、いつだってCLASHの音楽が僕を支えてくれた。
2001年、僕は初めてジョーのステージを観る機会に恵まれた。
目の前に現れたジョーは、確実に月日を感じさせる出で立ちだったけど、
強い眼差しだけは僕が「ルードボーイ」のなかで観たものと何一つ変わりが無かった。
ロックを心から愛する、ヤンチャで凶暴で優しい眼差しだった。
僕はひたすら興奮して「ジョー!!!」と叫びまくった。
ステージを去るとき、ジョーはそっと客席に向かって親指を突き出した。
「うまくやれよ。幸運を祈るぜ」と言っているようだった。


2002年12月、僕は当時のマネージャーからジョーが死んだ事を聞かされた。
しばらくは信じる事が出来なかった。
「ジョーストラマ−の死去は誤報だった」というニュースが早く流れないものかと
何度もテレビニュースをチェックした。
だけど、ついにそのニュースは流れる事はなかった。


思えば、そのときから僕の中でロックに対しての考え方が変わりつつあったのだと思う。
そのときの僕の音楽的環境は決して自分の満足のいくものではなかった。
何か得体の知れないものに縛られている、そう感じていた。
その数ヵ月後に僕らは事務所もレコード会社も辞めていた。
そこからの活動が、僕らにとっての「ロックンロールへの道」のはじまりだった。


いろんな事があったけど、一つ一つが自分のなかで確実に力に変わっていくことが
実感できた。
出した結論は残念なものであったけど、後悔は無い。
ロックをやる事の楽しさを、僕らはまた見つけることが出来た。


そして今、僕はまた「ロックンロールへの道」に一人放り出された放浪者だ。
でもココには偉大なロックンローラーが残してくれた数々の足跡がある。
道に迷うときには、その足跡をまた、頼りにさせてもらうことがあるかもしれない。


サンキュー、ジョー。


あなたは永久に僕にとって最高のロックンローラーであり続けるだろう。

僕もこの小さな島の中で、精一杯ロックをやり続けます。